近江上布と秦荘紬

近江上布は琵琶湖の東岸、遠く鈴鹿山脈を望み、清らかな水に恵まれた地にて育まれた布。
上布とは、江戸時代・藩侯や幕府への上納品として用いられたことから名付けられたといいます。
近江の麻布の起源は、宝徳元年(1449)高宮布として生産され、神宮や幕府へ献上された。
その後、金剛輪寺の「下用帳」に弘治元年(1555)佐々木氏の元服用に麻の紋服が、
その付近の秦氏によって織られたと記されている。
また、多賀大社所蔵の文書には豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、神官が陣中見舞いとして
御祈祷札とともに帷子5反を贈ったことに対し、秀吉の礼状があるとされており
その帷子は高宮布である。
このように古くから生産され、江戸時代には彦根藩主・井伊家からもその生産を奨励された。
織物は時代の推移とともに、白布(生平)から縞布(高宮縞)・藍染縞が出来るようになり
一般の着物として使用されるようになった。
機織りの技術は、京都・太秦より職人を招いた秦氏がその技術を習得し琵琶湖からの
潤いのある気候風土とも合い、この地が織物の産地として形成されて、
織物は白から縞へまた絣へと発展し、嘉永年間には郡田新蔵氏によって精巧な板締め絣が
発明され、括り絣と板締め絣の藍染絣が生産され、櫛押し絣と共に天明年間には
「天明絣」として農家が副業として営み、それが安定した地場産業となり
年間百万反の生産があったとされている。
それらが近江商人の天秤棒にのって、全国に広がったと伝えられている。

一方、秦荘紬は、養蚕の技術を習得し、農業と共に機織り・養蚕によって
生計を立て、春秋には養蚕をおこない冬には機を織り、そのほとんどが自給自足で
良い繭は売りさばき、余った繭は自家用に糸を紡ぎ、糸に出来ない屑繭は真綿にして
綿入れなどに使った。 
紡いだ糸で織り上げた「おかいこさんの着物」をひそかに着たと伝え聞く。
大正から昭和の初めにかけては、農家の女性は嫁入り支度に自ら機織りをして
着物を用意したと伝えられており、それが秦荘紬のはじまりである。







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